海に沈んだ「田子倉集落」とは?田子倉ダム建設の背景とその歴史を解説する

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福島県只見町にある田子倉ダムは、国内有数の大規模な水力発電ダムであり、只見川を活用して再生可能エネルギーを供給する重要な施設である。

しかし、その壮大なダムの建設の裏には、多くの人々の生活の場であった田子倉集落が水没し、消え去るという歴史的な出来事があった。

田子倉集落は、かつて只見川流域に位置し、自然豊かな土地で生活を営んでいた村である。

本記事では、田子倉ダム建設による田子倉集落の消失について、その背景や現在の状況を詳しく解説していきたいと思う。

田子倉集落とは?

田子倉集落は、只見川沿いの豊かな自然に囲まれた土地で、住民たちは農業や林業、川漁を主な生業として暮らしていた。

四季折々の自然を楽しみながら、伝統的な生活様式が守られてきた地域であり、住民同士の絆が深い共同体であったといわれている。

特に只見川は、地元の人々にとって生活の糧であり、文化的なシンボルでもあった。春には新緑、秋には紅葉が広がり、周囲の山々と川が織り成す風景は、多くの人々に愛されていた。

ダム建設以前の田子倉集落

ダム建設が決定する以前、田子倉集落には数十世帯が暮らしていた。

地形的には山間部に位置し、厳しい自然条件の中でも知恵を絞って生活してきた住民たちは、伝統文化を受け継ぎながら、自給自足の生活を送っていた。

この地域は観光地としてのポテンシャルもあり、山間の美しい景色や只見川の清流は、多くの訪問者を引きつけていた。

田子倉ダム建設計画

田子倉ダム

戦後のエネルギー需要の増大のため、この地域に田子倉ダム建設計画が考案された。

1950年代、日本は高度経済成長期に突入しており、電力供給の強化が国家的課題となっていた。田子倉ダムは只見川の豊富な水量を利用して、水力発電を行う目的で建設が進められたのだ。

また、田子倉ダムは日本国内で初めてロックフィル工法(石や土を用いたダム建設方法)を大規模に採用したプロジェクトとしても知られ、国土の開発や技術革新の象徴でもあったそうだ。

ダム建設に伴う集落の移転

ダム建設に伴い、田子倉集落は完全に水没することが決定した。

一つの集落やその近辺が水没することを考えると、とんでもない規模の計画だったことがうかがえる。

住民たちは立ち退きを余儀なくされ、全世帯が他地域に移転することとなった。

移転先としては、福島県内の他地域や、新潟県に新たな生活の場が用意されたが、慣れ親しんだ土地を離れることは住民たちにとって非常に辛い選択だっただろう。

住民たちは、移転により失われる故郷や伝統、そして生活の基盤への喪失感を抱えながらも、新たな生活への一歩を踏み出さざるを得なかったそうだ。

水没した田子倉集落

ダム建設後、田子倉集落は完全に水没し、かつての家屋や田畑、生活の痕跡は只見川の底に沈んだ。

下記がその様子を描いた模型だ。

現在ではダム湖(田子倉湖)の底に眠っており、地上からその痕跡を目にすることはできない。

ダム湖周辺では自然豊かな風景が広がり、観光地としても人気があるが、その湖の底にはかつての田子倉集落が存在していたことを知る人は少ない。

住民の心情と再出発

移転を余儀なくされた住民たちは、新天地にて新たな生活を送ることとなった。

新しい環境への適応や生活再建は簡単ではなく、多くの苦労が伴ったとされる。それでも、田子倉の人々は強い絆を持ち続け、地域の文化や伝統を絶やさないよう努力を続けてきたそうだ。

また、移転後も田子倉集落に思いを馳せる人々も多く、故郷を追憶する集まりや祭りが行われることもあるのだとか。

ちなみに、田子倉ダムは現在も日本の電力供給において重要な役割を果たしている。

当時大人だった人たちは、恐らく90歳ぐらいの歳になるが、田子倉集落の記憶は今後も語り継がれていくことだろう。

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