古代出雲に王国は実在した?歴史から消された勢力と「空白の四世紀」とは

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画像:夕暮れの稲佐の浜

日本には解明されていない歴史や伝承が数多く存在する。

今回のテーマでもある「古代出雲王国」もその一つだ。

出雲といえば、島根県を代表する「出雲大社」が広く知られている。

しかし、その創建時期や成り立ちは現在も明確には解明されておらず、『古事記』では神話の時代に建立されたと記されている。

このように神秘性に満ちた出雲であるが、かつてこの地には王国、あるいは強大な武装勢力が存在していたとする説がある。そして、その勢力はある出来事をきっかけに滅亡したとも伝えられている。

今回は、そんな「古代出雲王国」について、歴史資料や考古学的発見を交えながら、わかりやすく解説していきたいと思う。

そもそも出雲ってどんな場所?

画像:出雲大社

出雲は島根県にある人気の観光地であり、東京から出ている寝台列車「サンライズ出雲」なども有名で出雲は島根県を代表する人気観光地であり、東京と出雲を結ぶ寝台列車「サンライズ出雲」でも広く知られている。

しかし出雲の魅力は、観光地としての知名度だけではない。古くから数多くの神話や伝説が語り継がれてきた土地としても有名であり、日本神話と深い関わりを持つ地域として知られている。

出雲地域の主な特徴としては、以下のようなものが挙げられる。

・国譲り神話の舞台とされる「稲佐の浜」
・銅剣や銅鐸など、日本最大級の出土品
・謎に包まれた古代出雲王国の存在
・奥出雲をはじめとする秘境の数々

後ほど詳しく解説するが、『古事記』の約3分の1は出雲に関する記述で占められているともいわれている。そのため出雲は、日本神話の世界観が色濃く残る特別な土地だと考えられているのである。

神話から出雲大社誕生までの歴史

ここからは、出雲地域の誕生から出雲大社創建に至るまでの流れについて、詳しく解説していく。

出雲は、『古事記』や『日本書紀』に登場する神「オオクニヌシ」によって繁栄し、開拓された土地だと伝えられている。これは一般的に「国造り神話」と呼ばれているものだ。

画像:オオクニヌシ
オオクニヌシ

しかし後に、オオクニヌシの祖先神とされる「天照大神」が、彼のもとへ使者を送り、「出雲の地を譲ってほしい」と要求した。これが有名な「国譲り神話」である。

最終的にオオクニヌシは、以下の条件を提示したうえで、国を譲ることを承諾したといわれている。

  • オオクニヌシの息子たちとも交渉を行うこと
  • 国を譲る代わりに、自らを祀る壮大な宮殿を建てること

この申し出に対し、オオクニヌシ自身は比較的前向きであったが、後に大きな事件へと巻き込まれていくことになる。

天照大神の使者 VS オオクニヌシの息子

画像:タケミナカタ
オオクニヌシの息子「タケミナカタ」

国譲りに対して前向きであったオオクニヌシに対し、息子の「タケミナカタ」はこれを認めなかった。

そして後に、タケミナカタは天照大神が送り込んだ使者「タケミカヅチ」と戦うことになるのだが、その戦いはタケミナカタの惨敗に終わった。

敗れたタケミナカタは諏訪の地、現在の長野県へと逃亡し、「そこから外へ出ないこと」を条件に降伏したと伝えられている。こうして最終的に、国譲りは成立したのである。

なお、タケミカヅチは「剣の神」とも称される武神であり、現在は茨城県の「鹿島神宮」に祀られている。

国譲りから出雲大社建造へ

こうしてオオクニヌシとその息子たちの同意を得たことで、地上の統治権は天照大神の側へ移ることとなった。これが、現在まで語り継がれている「国譲り神話」である。

そしてこの時、国を譲ったオオクニヌシを祀るために建てられた宮殿こそ、現在の「出雲大社」であると伝えられている。

また、国譲り神話の舞台とされる「稲佐の浜」も、現在なお出雲大社の近くに存在している。

また、国譲り神話の舞台とされる「稲佐の浜」も、現在なお出雲大社の近くに存在している。

神話の世界を感じられる場所として、多くの人々に親しまれているのである。

神話の争いは本当に起きていた?古代出雲王国の存在

画像:夕暮れの稲佐の浜

先ほど紹介した物語は、あくまでも神話として語り継がれてきたものであり、当時の出雲における人々の暮らしや実態については、長らく歴史的に不明な部分が多かった。

しかし近年になり、考古学的発見などをもとに、古代出雲に対してさまざまな仮説が唱えられるようになっている。

代表的なものとしては、以下のような説が挙げられている。

  • 出雲の地にはかつて武装勢力が存在していた
  • もしくは王国が栄えていた
  • 王国間の争いを神話として形を変え、語り継いだのではないか

こうした説が注目を集める理由の一つが、近年の発掘調査だ。出雲大社周辺からは、武器や銅鐸をはじめとする数多くの出土品が発見されており、古代出雲に大規模な勢力が存在していた可能性が現実味を帯びてきたのである。

そして、これらの仮説の中でも特に有力視されているのが、「古代出雲王国」説である。

出土品から見えてきた、出雲に栄えた武装勢力

出雲大社から約18キロ離れた「荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)」では、1984年から1985年にかけて大規模な発掘調査が行われ、多数の青銅器が発見された。

画像:荒神谷遺跡の発掘品
荒神谷遺跡の発掘品

主な出土品は以下の通りである。

  • 銅剣358本(日本最多)
  • 銅鐸6本
  • 銅矛16本

特に銅剣358本という数は、それまでの常識を覆す発見として大きな注目を集めた。

さらに、荒神谷遺跡から数キロ離れた「加茂岩倉遺跡(かもいわくらいせき)」でも、日本最多となる39個の銅鐸が発見されている。

これらの出土品はいずれも弥生時代のものと推定されており、この発見をきっかけに、「出雲地域にはかつて強大な王国、あるいは大規模な武装勢力が存在していたのではないか」という議論が活発に行われるようになった。

また、歴史学者の瀧音能之氏も、自身の著書の中で、これらの出土品について興味深い見解を述べている。

銅剣の成分分析を行った結果、中国華北や挑戦版との鉛が含まれていた事が判明。弥生時代の出雲は、海外とも交流する大きな勢力であったと考えられている

引用・出雲大社の謎

これらの説について、日本の文化人類学者である関裕二氏も、2013年の著書「出雲大社の暗号」の中で興味深い見解を示している。

関氏は、出雲の「国譲り」にまつわる争いについて、単なる神話ではなく、5〜6世紀頃に実際に起きた歴史的出来事を反映している可能性があると言及している。

つまり、近年の考古学的発見によって、「国譲り神話」で描かれる対立や争いは、現実に存在した勢力争いをもとに作られたのではないか、あるいは実際の歴史を神話という形に変えて語り継いだものではないか、という見解が注目されるようになったのである。

なぜ古代出雲王国は滅びたのか?

荒神谷遺跡から大量の青銅器が出土する以前から、「出雲にはかつて、大和政権に対抗するほどの武装勢力が存在していたのではないか」という説は存在していた。

しかし当時は、それを裏付ける決定的な考古学的証拠が乏しく、有力な学説としては否定されてきた。

ところが、その後に発見された日本最大級の青銅器群によって、こうした説は一気に現実味を帯びることとなったのだ。

とはいえ、依然として多くの謎が残されている。

仮に「古代出雲王国」が実在していたとすれば、なぜその王国、あるいは武装勢力は歴史の表舞台から姿を消してしまったのだろうか?

出雲の神話や伝承は現在まで色濃く残されている一方で、実際の勢力自体の記録は極めて少なく、実態はいまだ十分に解明されていない。

この問題については、現在の考古学や歴史学においても明確な結論は出ておらず、さまざまな仮説が存在しているのである。

大和政権に滅ぼされた説

画像:ヤマトタケル
大和政権の領地を東へと拡大した「ヤマトタケル」

古代出雲王国が歴史から姿を消した理由の一つとして、「大和政権」と「古代出雲王国」の間で争いがあったのではないか、という説が存在している。

先ほど紹介した大量の出土品によって、「弥生時代から古墳時代にかけて、出雲には他国に対抗できるほどの強大な武装勢力が存在していたのではないか」という見方が有力視されるようになった。

一方で、出雲で発見された青銅器の多くは弥生時代のものと考えられており、それ以降の時代における出雲勢力の実態については、いまだ明確には解明されていない。

つまり、強大な勢力が存在していた痕跡はあるにもかかわらず、ある時期を境に、その足取りが突然途絶えてしまっているのである。

そして、ちょうど古代出雲王国の痕跡が見えなくなり始めた頃に勢力を拡大していったのが、「大和政権」であると考えられている。

日本の文化人類学者・関裕二氏も、著書『出雲大社の暗号』(2013年)の中で、次のような趣旨の見解を述べている。

十ニ代垂仁天皇の時代にヤマトタケルが出雲に行き、イズモタケルを討ち取ったとの説話があるが、現実の話とは受け取られていなかった

引用:出雲大社の暗号

ヤマトタケルとイズモタケルは、いずれも『古事記』に登場する人物である。

そして近年では、彼らの対立も単なる神話ではなく、実際に国家規模の争いを反映した伝承だった可能性があるのではないか、と考えられるようになってきたのである。

大和政権と空白の4世紀

大和政権の誕生についても、いまだ多くの謎が残されている。特に、政権が成立したと考えられている266年〜413年頃は、日本史の中でも非常に特殊な時代として知られている。

この時代は、日本国内の記録だけでなく、中国の歴史書にも日本に関する記述がほとんど見られない。そのため、歴史学ではこの期間を「空白の4世紀」と呼んでいる。

そして、この「空白の4世紀」に成立したとされる大和政権と、ほぼ同時期に歴史の表舞台から姿を消したと考えられているのが古代出雲の勢力だ。

この二つの流れが重なっていることから、一説では、この時代に日本の覇権を巡る大規模な争いが起きていたのではないか?とも考えられているのである。

神話の内容は大和政権と古代出雲王国を描いている説

画像:夕暮れの富士山

神話として語り継がれてきた「国譲り」の物語であるが、古代出雲の地から発見された数々の出土品によって、新たな仮説も生まれるようになった。

それが、「オオクニヌシの国譲り神話は、実際に現実世界で起きた出来事をもとにしているのではないか」という考えである。

これはつまり、『古事記』に描かれている「オオクニヌシが出雲の地を天照大神へ譲った」という物語は、「大和政権」と「古代出雲王国」の対立や支配権の移行を、神話という形で表現したものではないか、という説である。

もちろん、これについては依然として不明な点が多く、確定的な証拠が存在するわけではない。

しかし一説では、『古事記』にこうした内容が記された背景には、以下のような政治的・宗教的意図があったのではないかとも考えられている。

・天照大神の系譜が地上を統治する正統性を示すため
・その子孫とされる天皇や大和政権の権威を強調するため

実際、天皇と深い関わりを持つ神社には「神宮」という名称が用いられることが多い。

しかし、日本最古級の神社とされ、神話時代から存在すると伝えられる出雲大社には、「神宮」の名が付けられていないという点も、この説を色濃くする要因の一つだろう。

なぜ古代出雲王国VS大和政権はの話は古事記に載ってないのか?

では、仮に大和政権と古代出雲王国の間で実際に争いが起きていたとして、なぜその詳細な描写は『古事記』に残されていないのだろうか。

『古事記』に登場する物語の約3分の1は出雲を舞台としているといわれている。しかしその一方で、出雲大社の創建や古代出雲王国の実態については、現在もなお多くの謎に包まれている。

一説では「古代出雲王国は、大和政権の権威を脅かしかねないほど巨大な勢力だったため、その存在を歴史の表舞台から消したのではないか」とも考えられている。

当時の『日本書紀』や『古事記』は、日本古代史の基盤ともいえる重要な歴史書である。

もし、そのような書物の中に、当時の絶対的権力者である大和政権を揺るがすような記述が残されていたとすれば、権力者側にとって都合の良いものではなかった可能性もある。

さらに、『古事記』が編纂されたのは712年。当時は現代のようにインターネットやテレビなど情報を共有する手段が存在せず、歴史や情報は権力者によって管理されやすい時代であった。

そのため、一部では「当時の政治的意図によって歴史が再構成され、都合の悪い事実が神話へと置き換えられたのではないか」という見方も存在しているのである。

古代出雲王国・まとめ

以上が古代出雲王国についての見解だ。

古代出雲王国は、日本神話や『古事記』の世界と深く結びつきながらも、その実態はいまだ解明されていない謎多き存在である。

だからこそ出雲は、日本史や神話のロマンを感じられる特別な土地として、多くの人々を惹きつけ続けているのではないだろうか。

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