1. Home >
  2. 歴史 >

日本史上最強の武術家「武田惣角」の強さが異次元過ぎた。伝説の1対1,000の戦いとは?

※この記事にはアフィリエイト(商品)リンクが含まれている場合があります。

日本の歴史上、凄腕の格闘家・武術化は数多く存在したが、その中でも史上最強を選ぶとしたら誰だろうか?

その第一候補に挙げられる人物こそが武田惣角(たけだ そうかく)という人物だ。

武田惣角は、明治から昭和初期にかけて活躍した武術家であり、大東流合気柔術の実質的な創始者として知られている。

彼は、数々の武術を修めた後、生涯にわたって日本全国で自身の技術を教え、武術界に大きな影響を与えた人物の一人でもある。

まだ人が刀で戦っていた明治時代、会津藩の藩士でもあった彼の父親・武田惣吉が参加していた西南戦争に自分も参戦しようとするが、周囲の猛反対に合いこれを断念した。

その後、10年ほど九州へ武者修行の旅に出発するのだが、これが史上まれにみる伝説の始まりとなるだ。

今日における大東流合気柔術の開祖とも呼ばれる武田惣角は、構成員数1000人以上の巨大組織との対決や合気道の祖・植芝盛平に柔術を教えたなど数々の武勇をこの世に残してきた。

今回はそんな武田惣角が最強の武術家である理由や彼の生い立ち〜生涯などを解説していきたいと思う。

武田惣角の生い立ち

武田惣角は、1859年に現在の福島県会津坂下町で生まれた。父は会津藩士であり、相撲や剣術、槍術などに優れた人物であったため、幼少期から武術に触れる環境で育ったといわれている。

惣角は少年時代から上記の技術を学び、「会津の小天狗」と呼ばれるほどの実力を持つようになった。

しかし、学問にはあまり興味を持たず、寺子屋を追い出されるなど、やんちゃな一面もあったのだとか。

全国を巡る武者修行

13歳のとき、父親の友人である榊原鍵吉の内弟子として東京に上京し、「直心影流剣術」を修めた。

その後、各地の剣術道場を巡り、下記のような多種多様な武術を会得するため、武者修行の日々を送っていた

  • 剣術
  • 槍術
  • 弓術
  • 薙刀術

青年期には、家を飛び出して全国を放浪し、武術の鍛錬に励んだといわれている。

武田惣角の生涯は、常に武術とともにあった。明治後半から大正時代にかけて、彼は武術の実力を示すために数多くの試合や戦いに挑み、大東流合気柔術の名を広めていったのだ。

ちなみに、武田惣角自身は文字が書けなかったらしく、自ら伝記などを書くことはなかったといわれている。

大東流合気柔術の創始

武田惣角は、1898年に霊山神社の宮司から「合気柔術を世に広めよ」との指示を受け、大東流合気柔術の技を全国に広めるようになった。

大東流は、その実戦的な技術が特徴であり、戦場でも通用する格闘術として高く評価された。

武田惣角は道場を持たず、求められればどこへでも出向いて教えを広めた。相手の身分や年齢を問わず、幅広い層に大東流合気柔術の技術を伝えた彼は、合気道の創始者である植芝盛平にも影響を与えてたのだとか。

合気道の祖・植芝盛平

大東流の普及と特徴

大東流合気柔術は、武田惣角の生涯を通じて日本全国に広がった。

彼は教えを広めるために様々な門人を育て、武術界に大きな影響を与えた。特に海軍大将の竹下勇や警察署での講習会など、当時の武術に関心のあった人々に支持されていた。

また、彼は路上での実践や他流試合、単独で裏社会の組織を制圧するなど、実戦的な武勇伝も多く残されている。

これは大東流の技が実戦での即時対応を重視し、相手の力を利用して無力化するという特徴があったからに他ならない。まさに合気道の原点ともいうべき武術だった、と言っても過言ではないだろう。

巨大組織との大抗争

そしてこの武田惣角、たった一人で北海道〜東京に勢力を伸ばす組織、丸茂組と戦ったとの伝説が残っているのだ。

当時、丸茂組は北は北海道、東は東京まで勢力を伸ばしていた団体で、一説ではその構成員はなんと数千にも及ぶといわれている。

さらに深いところまで数を辿っていくと、その構成員数は1万に届くとの説もあるのだ(丸茂組自体は後に衰退し、現在はすでに消滅している)。

武田惣角は、そんな巨大組織と単独で戦い、制圧したとの伝説が語り継がれている。

もちろん上記は伝承のようなものであり、実際にどのような戦いがあったかは定かではないが、最終的にはその丸茂組の親分宅へ襲撃し、警察と手打ちさせたとの話もあるようだ。

中にはその恐ろしいぐらい鋭い眼光で睨みつけられた悪党がそろって道を開けたなどの逸話も残っている。

武田惣角のその後

その後、武田惣角は晩年に北海道を拠点に移して再婚し、子供たちと共に過ごしたといわれている。

そして、彼は太平洋戦争中の1943年(昭和18年)に青森県で亡くなり、84歳でその生涯に幕を閉じた。その後、彼の弟子たちは大東流合気柔術を継承し、現代に至るまでその技術は受け継がれている。

また、大東流合気柔術は、その後の日本武術、特に合気道の発展に大きな影響を与えた。

植芝盛平が合気道を創始する際にも、武田惣角からの影響が大きく、その技法や理念が今日も合気道の技に反映されているのだ。

武田惣角の意思は今なお日本人の間で受け継がれていると言えるだろう。

Comments

コメントをするにはログインが必要です。
まだアカウント登録が完了していない場合はこちらから行ってください。

あなたの持ってる知識を投稿して、世界に共有しましょう!登録を行えば誰でも記事を投稿できるようになります。

記事を投稿する