【古代日本の航海術】危険とロマンに満ちた数万年に及ぶ航海の歴史
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羅針盤も、海図も、エンジンもない。
それでも古代の日本人は、丸木舟一つで黒潮の激流に漕ぎ出し、見えない島を目指して夜の海を渡っていった。
現代人の感覚からすれば、それはほとんど無謀に近い。
しかし彼らには、長い年月をかけて積み重ねた知恵があった。波のうねり、風の向き、星の位置、鳥の飛ぶ方角など、海そのものを読む力だ。
縄文時代から遣唐使の時代まで、日本列島の人々はどのようにして航海術を育てていったのか。
今回はその壮大な歴史とロマンを辿ってみたい。
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【3万年前】最初の渡海、そのすさまじい挑戦
まずは日本の始まりについて大まかに触れておこう。
日本列島に人類が現れたのは、今から3万数千年前のことだと考えられている。
ホモ・サピエンスがアフリカを旅立ち、ユーラシア大陸を東へ進んだ末に行き着いた先の一つが、この列島だった。
しかし問題があった。当時の日本列島は、大陸と地続きではなかった場所もあったのだ。
特に琉球列島への渡来には、どうしても海を越えなければならなかった。
台湾から与那国島まで、最短でも約200キロ。しかもその海域には、世界最大の海流・黒潮が横たわっているため、現代の小型ボートでも油断できない海路であった。
現代プロジェクトで判明した日本人祖先の海路
国立科学博物館の海部陽介氏が率いた「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」は、まさにこの謎に挑んだ。
草の船、竹の船と何度も試作・失敗を繰り返した末、2019年7月、ついに丸木舟での台湾→与那国島の航海を成功させた。
海図も羅針盤も持たず、頼りにしたのは太陽と星の位置だけ。
夜を徹した漕ぎ続けの末に辿り着いた与那国島の浜辺は、3万年前の祖先たちが踏みしめたかもしれない土地と同じ場所だったのだ。
この実験が教えてくれるのは、「偶然の漂流」ではなかったということだ。
黒潮の流れを読み、星を頼りに方向を保ち続けるには、相当な知識と技術が必要だったため、3万年前の人々は、すでに何らかの形で「海を読む力」を持っていたと考えられている。
【縄文時代】丸木舟と黒曜石が結んだ、海上ネットワーク
縄文時代の人々が、単なる「漁師」だったと思ったら大間違いだ。
縄文時代にすでに広域の海上交易ネットワークが存在していたという事実を考古学的な証拠が示している。
その証拠として最も雄弁なのが、黒曜石の分布だ。
伊豆諸島・神津島で産出されていた黒曜石が、関東一円の遺跡から大量に出土しているのだ。

神津島は伊豆半島の南南東、約60キロほど離れた沖合に浮かぶ島だが、縄文人は丸木舟でこの海を渡り、石器の材料を本土へ運んでいたと考えられている。
また、青森・三内丸山遺跡(約5500〜4000年前)からは、約600キロ離れた長野県霧ヶ峰産の黒曜石が出土している。
杉原重夫・元明治大学教授の研究によると、これらは日本海の海上ルートを経由して運ばれた可能性が高いそうだ。
北海道や東北の交易品も三内丸山に集まっており、日本海が一大交易路として機能していたことをうかがうことができる。
これだけの交易を成立させるには、繰り返しの航海経験と、海流・風向きに関する知識の蓄積が必要だったはずだ。
予測になるが、縄文人は海を「恐いもの」としてではなく、「使えるもの」として認識していたのではないだろうか。
出土品から見る縄文時代の船の特徴

現在、日本各地の遺跡から出土した縄文時代の丸木舟はおよそ160艘にのぼる。
千葉県市川市の雷下遺跡からは、約7500年前の丸木舟が出土しており、これが日本最古とされている(2015年時点)。これは全長約7.2メートル、ムクノキをくり抜いた大型のものだ。
ただし、縄文の丸木舟には舷側を補強した跡や帆の形跡がほとんど見られない。
波の高い外洋航海には向いていないとも指摘されており、どのようにして長距離の海上交易を実現したのかは、研究者の間でも議論が続いているのが現状だ。
【弥生時代】船が進化により大陸との往来が始まる
縄文時代が終わりを告げ、弥生時代に入ると、船の形そのものが変わり始める。
丸木舟だけでは積載量も安定性も限界があったため、この時代に登場したのが「準構造船」だ。
丸木舟を船底に使いつつ、舷側板(げんそくばん)と呼ばれる板材を組み合わせることで、船体を大型化・高く安定させる構造である。
弥生時代の準構造船は、鳥取県の遺跡出土の土器や、福井県の銅鐸などに絵として描かれている。
そこには多数の漕ぎ手と大きな船体が表現されており、かなりの大型船が実際に使われていたことを示している。
滋賀県守山市の赤野井浜遺跡からは、弥生時代前期〜中期と推定される準構造船の部品(蛸先や舷側板)が出土しており、これが現在確認されているものの中では最古の準構造船の痕跡とされている。
朝鮮半島で発見された日本の造船
さらに注目すべき発見がある。日本製とみられる準構造船の部品が、朝鮮半島南部の遺跡(金海市鳳凰洞遺跡、昌寧松峴洞7号墳)からも出土しているのだ。
瀬戸内海沿岸で作られた船が、実際に朝鮮半島まで渡っていた可能性を示しているといえるだろう。
実際に「魏志倭人伝」には、弥生時代の倭人が朝鮮海峡を頻繁に往来していたことが記されている。
当時の丸木舟や準構造船は船底が浅く、横波に弱かったため、波の静かな時期を選び、陸地を視認しながら沿岸を進む「沿岸航法」が基本だったと考えられているようだ。
海流や風向きを直感的に把握しながら、少しずつ海を覚えていく、それが弥生時代の航海の実態だったのかもしれない。
【遣唐使の時代】命がけの外洋航海
7世紀、日本は国家として中国・唐との外交を本格化させる。その使節が「遣唐使」だ。
最初の派遣は630年(舒明天皇2年)。そこから894年に菅原道真の建議で停止されるまで、約20回の派遣が行われた。
ちなみに、一回の使節団は4艘編成で250〜500人規模にのぼることもあったという。
当時の遣唐使船は木造の平底構造で、羅針盤も正確な海図も存在しなかった。頼りは星の位置と、船師(航海の専門家)たちが積み重ねてきた経験だけだ。
最初期の航路(北路)は、北九州から対馬・壱岐を経て朝鮮半島西岸を北上し、遼東半島から山東半島へ至るルートだった。
陸地を視認しながら進めるため、比較的安全とされており、いざとなれば近くの港に避難できる安心感もあった。
しかし7世紀後半、白村江の戦い(663年)以降、新羅との関係が悪化する。
北路を通れなくなった遣唐使は、東シナ海を一気に横断する「南路」へと航路を変更せざるを得なくなり、この変更が遭難を激増させたといわれてちる。
危険を承知で続けられた数々の航海記録
南路では博多を出た後、五島列島の西沖から東シナ海を直接横断する。
五島列島を離れると、揚子江下流域まで中継地となる島がまったく存在しない。
当時の木造船の性能で、荒天を避けながらこの海域を渡りきるのは至難の業だったため、4艘の船団が揃って無事に帰還した遣唐使の方が、むしろ少なかったといわれている。
その記録は生々しい。
733年の航海では、帰路に平群広成の乗る船が嵐に遭い、現在のベトナム付近まで漂流した。
彼はそこから陸路・海路を組み合わせて長安へ戻り、5年の歳月をかけてようやく帰国したといわれている。
804年の航海では、空海の乗った第2船が福州に漂着したそうで、現地で海賊と疑われた一行を救ったのは、空海が漢文で書き記した堂々たる嘆願書だったという。
この苦労の先に、空海は真言密教の教えを持ち帰ることになる。
また阿倍仲麻呂は帰国を試みるも嵐で安南(ベトナム)に漂着し、生涯を唐の地で終えた。
「天の原ふりさけみれば春日なる 三笠の山にいでし月かも」——彼が詠んだ望郷の歌には、二度と帰れなかった故郷への思いがにじんでいる。
それでも遣唐使は派遣され続けたのはなぜか?
それだけの危険を冒しても持ち帰る価値のある「知」が、唐にはあったからだ。
そしてその「知」の中には、より優れた航海技術の情報も含まれていたかもしれない。
【中世前】羅針盤のない時代の知恵
羅針盤が日本に伝わるのは中世以降のことだが、それ以前の人々は、何を頼りに方向を定めていたのか?
沿岸を航行する場合は「山当て・山立て」と呼ばれる方法が使われた。
複数の山や岬を目標にして方向を定め、現在地を把握する技術なため、陸が見える範囲なら、海流に流されても修正が利く。
だが外洋に出れば、水平線しか見えない。そこで頼りになるのは天体だ。
太陽の昇る東・沈む西を基本方位に、夜は北極星を頂点とした星の動きで方向を保った。
唐の詩人・王維が遣唐使の帰路を詠んだ詩には「帰帆但信風(帰りの船はただ風まかせ)」とあり、当時の航海がいかに自然の力に委ねるものだったかがうかがえる。
海を読む知恵は、それだけではなかった。
・波のうねり——遠く離れた嵐や地形からくるうねりの方向で、見えない島の存在を察知できる
・鳥の飛ぶ方角——陸地に近い海鳥が飛ぶ方向は、陸を示すことがある
・海水の色と温度——黒潮と沿岸流の境界は、海の色の変化でわかることがある
・漂流物——陸から流れてきた草や木片は、陸地の近さを示す手がかりになる
これらの知識は、海で生きる人々が代々口伝えで受け継いできたものだ。
文字で記録されることは少なく、その多くは歴史の中に埋もれている。
しかしそれがなければ、3万年前の渡海も、縄文の黒曜石交易も、遣唐使の往来も、成り立たなかったはずだ。
失敗か重ねた、航海術という遺産
古代の航海に「安全」はなかった。
嵐に遭えば船は砕け、海流に流されれば見知らぬ土地に漂着したため、帰れなかった者、命を落とした者が無数にいたはずだ。
それでも人々は海に出続けた。交易品を運ぶため、使命を果たすため、あるいは未知の土地への純粋な好奇心から。
一回の航海で学んだことは次の航海に活かされ、失敗の経験は技術の改良につながったのだ。
船の形が丸木舟から準構造船へと進化したのも、航路が北路から南路へと変更されたのも、すべては試行錯誤の積み重ねだ。
遣唐使が停止された9世紀末以降も、日本人の航海は続いた。平安末期から中世にかけて日宋貿易が盛んになり、戦国時代には南蛮貿易が始まる。
そのたびに航海技術は更新され、より遠くへ、より安全に、という挑戦が繰り返された。
3万年前に台湾から丸木舟で与那国島を目指した名もなき先人たちの勇気が、日本列島の歴史の出発点だったとすれば、その系譜はずっと続いていたのだ。
まとめ
羅針盤のない時代に海を渡った人々の物語は、現代に生きる私たちが思う以上に、深く豊かで、そして壮絶だったのかもしれない。
しかし、彼らを突き動かしたのは、恐怖よりも大きな何かだったのだろう。
交易への欲求、未知への好奇心、あるいは使命感、そうしたものが積み重なって、この列島の人々の航海の歴史は刻まれていったのだろう。
参考資料
| 記事タイトル | URL |
|---|---|
| 3万年前の航海 徹底再現プロジェクト(国立科学博物館) | https://www.kahaku.go.jp/research/activities/special/koukai/ |
| 3万年前の航海、丸木舟で完遂(SciencePortal) | https://scienceportal.jst.go.jp/news/newsflash_review/newsflash/2019/07/20190709_01.html |
| 最古の丸木舟を発見 縄文人の計り知れない航海力(日本経済新聞) | https://www.nikkei.com/article/DGXMZO83454460Q5A220C1000001/ |
| 第4章 弥生時代の生活 5.交通(弥生ミュージアム) | https://www.yoshinogari.jp/ym/episode04/traffic.html |
| 瀬戸内海の準構造船と日韓交流(福武財団) | https://fukutake-foundation.jp/archives/archive_seto/527 |
| 71. 遣唐使船とその航路(南勢出版) | https://www.nansei-shuppan.com/wp/honda/past-aic/2254/ |
| 古代日本で大海原へ漕ぎだした先駆者たち(歴史人) | https://www.rekishijin.com/36356 |
| 魏志倭人伝の時代の航海術(国立国会図書館レファレンス) | https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.p |
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