もし旧幕府軍が戊辰戦争で勝利していたら日本はどんな道を辿っていた?ペリー条約と日本の明治維新のIFを考察する

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明治維新は、日本の近代化において最も重要な戦いの一つだった。

ペリー来航により、日本に不利な条約を受け入れた徳川幕府。

そんな徳川慶喜を中心とする体制を支持する旧幕府軍と、海外に対抗する改革を進めようとする新政府軍の争いは、戊辰戦争を引き起こした。

結果的に新政府軍の勝利によって明治維新が進み、日本は西洋化の道を歩んだ。

しかし、もしもこの戦いで旧幕府軍が勝利していたら、日本の歴史はどのように変わっていただろうか?

特に、ペリー来航によって結ばれた不平等条約がどのように影響を及ぼしたかという点は興味深い。

もし旧幕府軍が勝利していた場合、それは単なる幕府存続ではなく、日本の国際関係や近代化の方向性を大きく変えた可能性がある。

本記事では、旧幕府軍が勝利した場合のifシナリオを、考察していく。

まずは明治維新をざっくり振り返る

考察を開始する前に、明治維新の歴史をざっくり振り返ってみよう。

明治維新は様々な要素が重なり合っているが、今回は特に重要なペリー来航〜戊辰戦争までを振り返ってみる。

ペリー来航と幕府の選択

Landing of Commodore Perry, Officers and Men of the Squadron, to Meet the Imperial Commissioners at Yoku-hama, Japan, March 8th 1854

1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー率いる黒船艦隊が神奈川県の浦賀沖に現れ、日本に開国を迫った。

当時の幕府は、長年続いた鎖国政策を維持するか、開国して欧米と協力するか、という難しい選択を迫られた。

翌1854年、日本は日米和親条約を締結し、下田と函館の二港を開港。さらに1858年には日米修好通商条約が結ばれ、関税自主権を持たないまま貿易を開始することになった。

これらの条約は、日本にとって不平等な条件を課すものだったが、同時に西洋の技術や文化を取り入れるきっかけともなった。

幕府が開国を選んだことで、日本は西洋との関係を築く道を歩むことになったのである。

徳川政府が終了するも戊辰戦争勃発

外国に対して弱腰な徳川幕府に対する民衆や藩士の不満は高まり、武力行使の計画まで出てきてしまう。

これを回避すべく、当時の征夷大将軍である徳川慶喜は、「大政奉還」を行った。これは、長年にわたり日本の政権を動かしてきた徳川幕府を終了し、その実権を朝廷(天皇)に再び返すというものだ。

政権のトップから降りた徳川慶喜だったが、その後も政治の中心には居座り続けたため、全国の藩士を中心とする「新政府軍」と争うことになる。

これが、徳川慶喜を支持する「旧幕府軍」と改革を求める「新政府軍」の戦い、すなわち戊辰戦争である。

結果的に新政府軍が圧倒的戦力で勝利し、外国に対抗できる新たな日本を築き上げていくことになった。

もし旧幕府軍が勝利したらどうなっていた?

ここからが今回の本題だ。

先ほども語ったように、正史では戊辰戦争は新政府軍が勝利し、外国にも負けない日本を作り上げていくようになる。

しかし、もし旧幕府軍が戊辰戦争で勝利していた場合、その後の日本はどんな道を辿ったのだろうか?

旧幕府軍が新政府軍を倒していた場合、幕府が主導する形で開国が進められていた可能性が高い。

江戸幕府はすでにペリー来航の時点で西洋諸国との交渉を行っており、諸外国との条約を締結していた。このため、幕府が存続した場合でも、日本は完全な鎖国に戻ることは考えにくいだろう。

しかし、旧幕府軍が勝利した場合の開国は、新政府軍による急速な西洋化とは異なるより緩やかな形で近代化が進んだ可能性がある。

具体的には、幕府は西洋の軍事技術や科学技術を導入しつつも、政治体制や文化の大部分を維持しようとしただろう。

例えば、西洋の議会制度を導入するのではなく、幕府による中央集権的な統治を続けることで、日本独自の近代国家を目指したとも考えられる。

不平等条約の見直しが遅れる可能性

ペリーと幕府の交渉

明治新政府は、欧米との不平等条約の改正に尽力し、最終的に1894年の日英通商航海条約で関税自主権を回復することに成功した。

しかし、もし旧幕府が存続していた場合、この不平等条約の改正は遅れた可能性が高い。

実際に幕府は開国後も外交に消極的であり、幕末の動乱によって国際交渉力を低下させていた。

そのため、外国との関係改善が進まず、不平等条約の状態がより長く続いた可能性がある。結果として、日本はより長期間にわたって欧米の経済的影響下に置かれたかもしれない。

47都道府県の形成(廃藩置県)の遅れ

廃藩置県とは、これまで日本各地にあった藩を廃止し、県を置くというもので、今の47都道府県の原形となった政策だ。

もし、旧幕府軍が勝利していた場合、明治政府のような急速な廃藩置県は行われず、藩制度が長く存続していた可能性が高い。

幕府は大名統治を基本としていたため、藩を維持しながら徐々に中央集権化を進めたかもしれない。

ただし、反幕府勢力だった薩摩藩や長州藩は弱体化され、幕府の監視下に置かれるか、縮小・統合される可能性がある。

また、時代の変化に対応するため、段階的な藩の再編が行われ、最終的には緩やかな形で県制度に移行したとも考えられる。

この場合、日本の統治体制はドイツの連邦制に近い形となり、各地域の自治権が強く、幕府が中央権力として統制する封建的な国家体制が続いていた未来も想像できる。

その結果、現代の都道府県制度とは異なり、より地方分権的な日本になっていたかもしれない。

軍事改革の遅れ

明治政府は、富国強兵を掲げ、西洋の軍事技術を積極的に導入した。

特に、フランス式の陸軍やイギリス式の海軍を採用し、軍事力の近代化を急速に進めた。

しかし、幕府が存続していた場合、軍事改革のスピードは大きく遅れていた可能性が高い。

幕府は戊辰戦争で伝統的な武士制度に固執したため、もし勝利していたとしても、近代的な軍隊を整備するまでに時間を要しただろう。

関連記事:【明治維新】圧倒的アームストロング砲の前に散った彰義隊の最後が壮絶すぎた。新政府VS旧幕府軍を解説する

この結果、日本の軍事力は欧米列強に比べて劣るものとなり、列強による圧力に対抗できないまま、清国のように半植民地化されていた結末も考えられるだろう。

政治体制の変化

もし幕府が存続していた場合、武士が支配する体制の封建制度をそのまま維持するのは難しいだろう。

下手すると、また薩摩藩や長州藩のように倒幕を企てる組織が現れ、再び戊辰戦争のような争いが再発する恐れがあるからだ。

そうなると、幕府が政治の中心を担いながらも、武士の力を抑え、フランスやドイツのように憲法に基づいた統治(立憲君主制)を導入したかもしれない。

この場合、日本は徳川家を象徴とする国家となり、幕府が近代化を進めつつも、天皇ではなく徳川将軍が政治の中心となる体制が続いた可能性も考えられる。

産業革命の遅れと経済の変化

幕府が存続していた場合、西洋技術の導入は続いたが、明治政府ほど急激な産業革命は起こらなかった可能性が高い。

日本は工業化よりも農業と伝統産業を重視し、西洋のような重工業中心の国家ではなく、より「日本的な経済発展」を遂げた可能性がある。

例えば、手工業や伝統産業が発展し、世界に向けた輸出品の多様化が進んだかもしれない。

その場合、日本は西洋とは異なる経済モデルを持つ国となり、工業国家ではなく、貿易を重視した商業国家となっていた可能性も見えてくるだろう。

結論・旧幕府軍が戊辰戦争で勝っていたら

結論として、旧幕府軍が戊辰戦争で勝利していた場合、日本の近代化の方向性は大きく変わっていたと考察できる。

繰り返しになるが、幕府はペリーとの条約によってすでに開国を決定していたため、完全な鎖国には戻らず、より緩やかな近代化が進んだと考えられる。

しかし、幕府主導の開国では、明治政府のような急速な改革は難しく、不平等条約の改正が遅れ、日本の国際的な立場はより厳しくなった可能性は否めない。

また、軍事改革の遅れが日本の国防力を弱め、西洋列強の影響下に置かれるリスクも高まっただろう。

このシナリオの中では、日本は軍事大国になるのではなく、独自の文化と経済発展を重視した貿易国家として発展していた可能性が高いと結論づける。

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