【岡本八幡神社】東京のレイライン上にあるパワースポットとは?現地調査を元に歴史を徹底解説

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画像:弥之助の納骨堂

東京都には約1,400以上の神社があるといわれているが、その中でも非常にミステリアスな神社が世田谷区の一角に存在する。

「岡本八幡神社」という名前の神社だ。

この岡本八幡神社は歴史こそ古くはないものの、下記のような特徴があるのだ。

  • 歴史的建造物が立ち並ぶ「レイライン」上に位置している
  • 三菱財閥先祖の墓が裏にある
  • かつて周辺で起きた恐ろしい祟を沈めた場所

今回は、このミステリーに富んだ「岡本八幡神社」を実際に現地調査してきたので、その歴史や概要を詳しく解説していく。

※この記事は2022.05.08に執筆された内容となっています。

世田谷区を通過するレイラインとは?

岡本八幡神社を通過する「レイライン」とは、日本のみならず世界各地で見られる不可思議な現象の一つだ。

日本の場合は、夏至の日に南の高千穂から東の鹿島神宮へと一直線に影が通るといわれており、その経過地点には下記のような歴史的なスポットが立ち並んでいる。

  • 高千穂
  • 剱岳
  • 富士山
  • 伊勢神宮
  • 皇居
  • 鹿島神宮
  • etc…

なぜこのような並びに沿って建造物や遺跡が建てられたのか、一体誰がどうやって正確にレイラインを把握していたのかは不明だ。

また、以前に紹介した平将門の怨念が残るとされる地、「将門塚」もこのレイライン上に位置している。

関連記事:平将門の怨念は今も存在する…東京の最恐スポット「将門塚」を調査してきた。歴史も併せてご紹介

そして、この「岡本八幡神社」も将門塚や皇居と並び、東京のレイライン上に位置するスポットの一つなのだ。

世田谷・岡本八幡神社とは?歴史を解説

画像:岡本八幡神社

ここからは、そんなレイライン上に位置する岡本八幡神社の歴史や見どころを解説していく。

世田谷の歴史を書き残した文献「世田谷広報室」によると、岡本八幡神社の古い記録などはほぼ残っておらず、いつ建てられたのかは不明なのだとか。

しかし、1854年には改修工事を行った記録があるため、少なくとも江戸時代には存在していたことが分かる。

なぜ、都内の神社であるにも関わらず創建記録が残っていないのかというと、この世田谷区はかつて非常に小さな村「岡本村」だったため、そもそも記録を取る必要性がなかったからだと推測できる。

また、1982年に発行された文献「世田谷、町村のおいたちによる」と、1808年の岡本村の人口はわずか220人だったそうで、当時は木が生い茂る土地だったと語られている。

1926年の昭和初期に入ると、岡本村を含む世田谷エリアは下記のように、徐々に土地開発が進んでいったそうだ。

画像:岡本村の土地開発

そんな岡本村は偶然にもレイライン上に位置していた訳だが、残念ながら岡本八幡神社がいつ誰が何のために建てたのか、その経緯は不明のままだ。

岡本八幡神社によって封じられた第六天の森の祟り

昭和時代に入り、土地開発が盛んに行われた岡本エリアだが、その時に人智を超えた事件が起きたといわれている。

かつて岡本の地には第六天の森と呼ばれる場所が存在したそうで、ここも土地開発の対象エリアとなっていたそうだ。

そして‎2017年に発行された著書、「第六天はなぜ消えたのか」によると、1964年の都市開発の際にこの第六天の森でも森林伐採が行われたのだが、そこで不可解な事故や怪我人が続出したのだとか。

人々はこれを第六天の祟と考えたそうだ。

もともと、第六天という名前は仏教の世界では魔王の階級にあたる神のことで、日本各地にその第六天を祭る神社やゆかりの地が存在している。その内の一つがこの第六天の森だったということになる。

この事故に怯えた人々は、森の一部を避ける形で土地開発を進めた。そして、後に第六天の神は岡本八幡神社に合杯される形となり、現在も神社にて祀られているといわれている。

岡本八幡神社の隣にある三菱財閥の墓

画像:岡本八幡神社の本殿

ここまで岡本八幡神社の概要や歴史を解説してきたが、その裏手には下記のようなスポットも点在している。

  • 三菱財閥2代目・岩崎弥之助のお墓
  • 歴史的資料を保管する静嘉堂文庫
  • 世田谷の絶景が見れる展望台
  • 日本家屋などがある岡本公園

特に静嘉堂文庫という資料館では、古典籍20万冊、東洋古美術品6,500点、重要文化財84点、7点の国宝を収容しており、非常に価値のある歴史資料を保有している。

ちなみに、この静嘉堂文庫は研究者用に公開されているため、大学生などが立ち入る場合は紹介状が必要となっている。

しかし、最も注目すべきは、イギリスの彫刻家・ジョサイア・コンドルによりデザインされた「岩崎家の納骨堂」だ。

画像:弥之助の納骨堂

岩崎家というのは、当時日本最大の財閥といわれた三菱財閥を創設した一族であり、19世紀後期から20世紀にかけて下記のような様々な産業ビジネスを展開してきた。

  • 海運業
  • 保険業
  • 銀行業
  • 造船業
  • 倉庫業
  • 鉱山業
  • etc…

上記のような巨大な産業を抱えた結果、当時の三菱財閥の総資産は120兆円に登るといわれており、これは日本の国家予算をも凌ぐ額となっている。

三菱財閥と岩崎家は、まさに巨万の富と産業、影響力を持っていたのだ。

しかし、三菱財閥は第二次世界大戦にて政府の権力、軍国主義に加担したとみなされ、本社はGHQによって解散に追い込まれてしまう。その後は、三菱の各子会社は分裂していき、現在の各三菱〇〇を名乗る会社へと変化していったのだ。

なぜ岩崎家はここに納骨堂を建てたのか?

先程も触れたとおり、岡本八幡神社の裏には2代目跡取りの「岩崎弥之助」のお墓が建てられている。

その美しい造りとスケールから想像するに、どれほど巨額の費用をかけたのかは容易に想像ができるだろう。

しかし、なぜ日本トップ財閥の総帥が周りを住宅街に囲まれた場所に墓を建てたのだろうか?

これに関しては明確な資料が存在するわけではないが、この岡本八幡神社のレイラインの存在が岩崎家を惹きつけたのか、それともこの場所に何かゆかりがあったのか、その辺りも不明のままだ。

レイライン上に墓を立てると、一体死後になにが起こるのだろうか?

もしかすると、レイラインに位置する場所には、私たちが想像するよりも遥かに大きな謎が潜んでいるのかもしれない。

参考文献

  • 川副秀樹 (2017/8/30).『「第六天」はなぜ消えたのか』 言視舎
  • 櫻井正信 (1986).『せたがやの民謡と伝説』 世田谷区広報室
  • 世田谷区 (1976/9/25). 『世田谷の歴史』 大日本印刷株式会社
  • 太田垣雄・石谷侑三・今井咲子・宗こうすけ (1982/10/1) 『世田谷、町村のおいたち』 世田谷区区長広報室
  • 『世田谷の地名』.(1989) 東京都世田谷区教育委員会
  • せたがや百年史委員会 (1992/4/20). 『せたがや百年史』 大日本印刷株式会社
  • 世田谷区生活文化部文化・交流課 (1999/2/1). 『ふるさと世田谷を語る』 幸永印刷
  • 「三菱グループサイト 三菱の歩み 沿革」 (発行年不明). https://www.mitsubishi.com/ja/profile/history/, (閲覧日:2022/1/12)
  • 「三菱グループサイト 三菱人物伝」 (発行年不明). https://www.mitsubishi.com/ja/profile/history/series/, (閲覧日:2022/1/12)
  • 「三菱グループサイト 三菱人物伝 岩崎彌太郎」 (発行年不明).https://www.mitsubishi.com/ja/profile/history/series/yataro/, (閲覧日:2022/1/12)

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