【加賀の潜戸】島根県奥地に存在する賽の河原とは?島根の秘境を現地調査してきた
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賽の河原と呼ばれるスポットは日本各地に点在しているが、その中で最も異質な場所は、島根県の「加賀の潜戸」といっても過言ではない。
島根県といえば、出雲大社や玉造温泉などの人気観光スポットが有名だが、この「加賀の潜戸」は神話の舞台ともなった神秘的な洞窟であり、その歴史は1000年以上前に書かれた書物「出雲風土記」にも記されている。
また、最寄りのマリンプラザしまねから遊覧船で50分程かけて巡ることができ、洞窟内部の「賽の河原」と呼ばれる秘境に上陸することも可能だ。
今回はそんな加賀の潜戸を現地調査したきたので、その歴史や神話を含めて解説していく。
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加賀の潜戸とは?

加賀の潜戸の観光ポイントを紹介する前に、その歴史と概要を解説したいと思う。
島根県松江市に位置する「加賀の潜戸」は、洞窟周辺と内部を遊覧船で巡ることができる名所だ。
遊覧船では「新潜戸」と呼ばれる長さ200mほどの洞窟を巡ることができ、さらに「旧潜戸」と呼ばれるスポットでは船を降りて上陸し、徒歩で内部を回ることが可能だ。
特に、旧潜戸は「あの世とこの世の境」ともいわれており、別名・賽の河原とも呼ばれている。

加賀の潜戸の歴史
加賀の潜戸は、日本神話とも結びつきのある場所としても知られている。
というのも、日本神話に登場する神「猿田彦命(さるたひこのみこと)」は、この加賀の潜戸で誕生したと語り継がれているからだ。

ちなみに、この猿田彦命は島根県の由緒正しい「佐太神社」のご祭神としても祭られている。
そして、その猿田彦命の母親に当たる「支佐加比売命(きさかひめのみこと)こそが、この加賀の潜戸を創った人物だと語り継がれているのだ。
その過程をざっくりまとめると、下記の通りだ。
① きさかひめが大事にしていた弓矢が波にさらわれてしまう
②「弓を返してください」と祈っていると、金色の弓矢が流れてきた
③その弓矢を洞窟めがけて放つと、見事に貫通した←(現在の新潜戸)
④弓矢を射抜いた先から外の明かりが差し込み、「あ、かかやけり」と言った
⑤その言葉が後に「かか」→「加賀」といった形に変化し、現在の加賀の潜戸の由来となった
ちなみに、その時放った弓矢は新潜戸の後ろにある島までも貫通したそうだ。
後に息子の猿田彦命が、その空いた穴を的にして弓矢の練習をしたという言い伝えもあり、別名「的島」とも呼ばれている。

加賀の潜戸は1000年以上前から存在した?
先程の加賀の潜戸誕生秘話は、あくまでも神話上の物語だが、 その存在は、今から1300年前に書かれた「出雲風土記」の中でも下記のように描写されている。
「今の人、是(の窟の辺を折るくときに、必ず声あげ、いなしなげ、とどころして待つ。若し密かに行がば、神現れて、つむ風起こり、行く船は必ず覆る」
出典:出雲風土記
上記はつまり、洞窟を通る際に声を出して音を立てなければ、神様の天罰により船が転覆させられるといった内容が書かれています。

また、明治時代には石を投げて音を出し、洞窟を通る人の姿が確認されていたそうだ。
このように、加賀の潜戸に関する風習は、1000年以上の長い歴史の中でも度々記録されていることが見て取れる。
それほどこの場所が人々から恐れられていた、もしくは神聖な場所として扱われていたということだろう。
ちなみに、この加賀の潜戸は、出雲風土記の中では加賀神崎(かがのかんさき)と呼ばれている。
加賀の潜戸の現地調査レポート

加賀の潜戸のバックボーンがわかったところで、現地の実際の様子を紹介していきたい。
加賀の潜戸周辺は、洞窟以外に何か特別な観光名所があるわけではないが、波の浸食によってできた「冠島」や、かつては船の寄港地でもあった「桂島」など、小さな島々が点在している。
また、南西に位置する「西の浜」では、毎年5〜7月になると「海ほたる」が現れるそうだ。
あの世とこの世の境目といわれる加賀の潜戸が持つイメージとは、非常にかけ離れた幻想的な光景であることは間違いないだろう。
それらも非常に魅力的ではあるが、今回は加賀の潜戸のメインともいえる、「新潜戸」、「旧潜戸」を巡ってきたので、そちらをメインに解説していく。
新潜戸
金色の弓矢が洞窟を貫通して出来たといわれている「新潜戸」。
冒頭でも少し触れた通り、加賀の潜戸は「マリンプラザしまね」という場所から遊覧船で50分ほどかけて巡ることになる。もちろん、この200mほどの洞窟も船で突き進む形となる。

内部は神秘的な光景が広がっており、船員の方が歴史や地理的な解説などをしてくれるので、歴史好きには非常にありがたい。

新潜戸は猿田彦命誕生の地ともいわれており、洞窟内の天井から降り注ぐ水滴は「母の乳汁(おものちしる)」と呼ばれているそうだ。
また、この新潜戸の奥側に移っている島は、先ほども触れた「的島」と呼ばれるスポットで、この新潜戸に放った弓が貫通して形成されたといわれている。
他にも鳥帽子の形をした「冠島」や、奇妙な形をした「象岩」なども非常に興味深い地形をしていおり、神話と自然が入り乱れた光景を観ることが可能だ。
旧潜戸

新潜戸を回った後、遊覧船は旧潜戸と呼ばれるスポットに上陸することになる。
ここは「賽の河原伝説」が残るスポットとなっており、10分ほど船を降りて回ることが可能だ。
洞窟の外には祠があり、その隣のトンネルを通って賽の河原へと進む。


ちなみに、上記の旧潜戸トンネルは長さ約130mほどあり、途中には6体のお地蔵様が並んでいた。
こちらはお亡くなりになられた子供たちの魂と、ここを訪れる人を見守っているといわれている。
賽の河原
トンネルを抜けると、加賀の潜戸最大の見どころでもある「賽の河原」に到着する。

ここは無数の積石とお地蔵様、お供え物が置かれており、言葉を奪われるほど神秘的な雰囲気をかもし出している。
ちなみに、日本に古くから伝わる賽の河原といえば、親より先に亡くなった子供たちが罰として苦行を受ける場所といわれている。
その罰とは石を積み上げていくだけのシンプルなもとなっていっるが、途中で鬼が来て石を崩していくのだとか。しかし、子供たちは後に地蔵菩薩と呼ばれる仏教の神様に救われるといわれている。

この旧潜戸では、夜な夜な子供たちが石を積みに来て、地面にその足跡を残していく、といった伝承が伝えられているそうだ。
実際には全国から子供への供養で訪れた親御さん、観光客が石を積んでいき、こちらでお祈りをしていかれるそうだ。

ちなみに、あのゲゲゲの鬼太郎の作者でもある「水木しげる」も幼少期にこちらを訪れたらしく、当時の感想を著書の中で下記のように語られています。
「あの世とつながる場所として息を飲んだ」
水木しげる 日本の妖怪・世界の妖怪(2018)
加賀の潜戸に伝わる海人族伝説
話は少し逸れるが、かつてこの旧潜戸に住み着いていた民族についても触れておこう。
島根県にはかつて航海術や海上で交易を行っていた「海人族」と呼ばれる民族が生活していたと考えられている。

海人族イメージ画像
海人族は謎の多い民族(氏族)でもあった為、今でも謎に包まれている部分が多いが、この加賀の潜戸(旧潜戸)では下記のような伝説が語りがれている。
賽のかわら伝説
太古の昔、海人族(あまぞく)の女神たちが此処で子供達を産み育てた場所といわれています。
幼くして生命絶えた我が子を埋め小さい石の塔を積んだのが始まりとも云われています。
現在は、全国の亡き幼児の魂の集まる場所と云われています。
加賀の潜戸
上記はここで人が生活していた様子が暗示されているのと、賽の河原のバックボーンが少しだけ垣間見れる内容となっている。

ちなみに上記の海人族とは、島根県の沿岸部を中心に生活していたといわれている集団だが、彼らに関する研究は資料不足のため今でも難航しているそうだ。
関連記事:【海人族】日本の海を支配した集団とは?海人族の歴史や安曇野開拓などを徹底解説
とはいえ、旧潜戸はとにかく神秘的かつ非日常を味わえるスポットとなっているため、松江市や出雲市を訪れる場合はぜひ一度立ち寄ってもらいたい。
加賀の潜戸へのアクセス方法
加賀の潜戸へアクセスについてもザックリ下記の通りだ。
→松江駅にて一畑バス マリンプラザ線 マリンプラザ前行 乗車
→マリンプラザ前 下車(乗車時間 44分、片道 730円)
→マリンプラザにて遊覧船の乗車券を購入(中学生以上1500円、小学生 700円)
運賃合計2,230円
松江駅からマリンプラザ駅へのバスは、一時間に一本となっており、それに伴い遊覧船の時間も同じように調整されている。
また、しまねマリンプラザ内にはお食事処や駐車場も完備されていので、車以外でアクセスする場合でも安心だ。
加賀の潜戸・まとめ
加賀の潜戸は現実と夢の狭間にいるような、そんな異質な場所だった。
1000年分の歴史と民俗が作り上げてきたこの土地には、言葉では語れない独特な雰囲気が常に漂っていた。
普通の観光名所では体験できない感覚を肌で味わいたい方には、非常におすすめなので、この記事をきっかけに是非一度足を運んでもらいたい。
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