平将門の怨念は今も存在する…東京の最恐スポット「将門塚」を調査してきた。歴史も併せてご紹介
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「平将門の乱」で知られている平安時代の武将「平将門(たいらのまさかど)」。
平安時代に民衆のための政治を行い、人望も厚かった将門だが、一族間の争いや朝廷(政府)と敵対した末に、斬首刑に処されてしまった。
そんな平将門の首が祭られて入る「首塚」をご存知だろうか?
撤去作業が行われる度に不可解な事故が多発したため、将門の怨念が住み着く場所ともいわれている。
今回はそんな平将門の首塚こと「将門塚」を実際に調査してきたので、彼の歴史と共に紹介したいと思う。
※この記事は2021.04.30に執筆された内容となっています。
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平将門とは?将門塚ができるまでの歴史

首塚(将門塚)について解説する前に、まずは平将門のバックボーンについても触れておく。
平将門は903年(平安時代)に、下総の国(しもうさのくに)で広大な土地と勢力を誇る父・平良将の下に誕生した。
この平将門の祖父は、桓武天皇(かんむてんのう)の血筋といわれています。
平将門VS平一族(連合)との争い

そんな高貴な家系に生まれた将門ですが、父・平良将の亡き後、下総の土地を奪い取ろうとした叔父・平国香(たいらのくにか)と争うことになる。
935年に勃発した戦いの大まかな内容は、下記のとおりだ。
①平将門と平国香による「内輪もめ」が勃発
②平国香と源護+彼の息子たちによる連合結成
③しかし、将門の力は非常に強く連合を撃退(平国家と源護の息子3人が討ち取られる)
④勢いに乗って祖父・平良正(たいらのよしまさ)をも撃破
⑤ここで将門の伯父にあたる平良兼(たいらのよしかね)が乱入
⑥平良兼+平貞盛(討ち取られた国家の息子)が連合結成
⑦平将門に戦を仕掛けるも返り討ちに合い、逃亡
⑧再度、将門と連合が衝突
⑨一度は敗れるも、最終的に将門が勝利
⑩ 良兼は亡くなり、平貞盛は地元へ逃走
⑪平の一族の実権は将門が握る
これは935年に起きた平一族の内輪もめだったが、最終的に将門が連勝し、一族の実権を握る形となった。
ちなみに、⑦の時点で、源護が朝廷に助けを求めたが、「これは一族間の争いであり、朝廷と争う気はない」と将門が主張し、その言い分が通ったのだ。
長くなってしまったので、下記に概要をまとめておく。
- 平将門は天皇の血を引く武士だった
- 一族の間で争いが起きた
- 将門の力は非常に強大だった
- 朝廷は親族間での争いとみなし、関与しなかった
【平将門の乱】自ら新皇を名乗り、朝廷と敵対関係に

将門は後に神のお告げにより、新しい天皇になること宣言をし、自ら「新皇」と名乗ったといわれている。
そして、国司(国の行政官)に支配されない、武士や農民のための新たな国造りを開始した。
しかし、これは国のルールや既存システムの崩壊を招くものでもあったのだ。
その後も将門は領土を拡大していき、さらには地方政治を行うために朝廷から派遣された国司から「印綬」と呼ばれる証明書的なものを奪いとっていったのだ。
これは、政府や天皇に対する裏切り行為とみなされ、平将門は朝廷と完全に敵対してしまう共に、935年から始まる「平将門の乱」の幕開けででもあった。
朝廷がついにブチギレ!平将門討伐が開始される
そして、以前の戦で将門に敗れた「平貞盛」(たいらのさだもり)と「藤原秀郷」(ふじわらのひでさと)が連合を結成し、将門討伐を開始することになった。


彼らの連合は4500の兵力に対して、将門の兵力は1000人足らずだったこともあり、将門は敗北して逃走を図った。
その後、将門は約400の兵を率いて約1000人の連合軍と再び戦いを挑むが、頭を弓で射抜かれ死亡し、長き戦いに終止符が打たれたのだ。
- 自らを新たな天皇「新皇」と名乗る
- 国司(国の行政官)から印綬を奪い取っていく
- 朝廷と完全に敵対関係になる
- 平貞盛+藤原秀郷の連合に敗北(940年)
怨念により建てられた「平将門の首塚」

平将門の敗北後、彼の首から上は京都にて晒し首にされしまう。
しかし伝承によると、下記のような超常現象が起きたとも伝えられている。
- 将門は晒し首になった3日目に目を開いた
- 白い光を放ちながら飛び上がった
- 首から上は東へと飛び立ち、現在の東京・丸の内に落下
- その時、大地に響き渡る大きな音を立てたいた
- 周辺は夜のように真っ暗な暗闇に包まれた
その現象に怯えた人々は塚を立て、平将門を祀ったのだとか。これがいわゆる平将門の首塚・「将門塚」がてきた理由だ。
ちなみに、首から下の胴体は茨城県に運ばれたため、平将門の顔は自分の体をめがけて東へ飛んだといわれている。
そして現在の茨城県・延命院にて、「平将門の胴塚」が今も建られいるのだ。
平将門の怨念?首塚で多発した不可解な事故
将門塚は何度も土地開発のために撤去される予定が立てられていましたが、その度に奇妙な事故が起きてきた。
日経ビジネスによると、第二次世界大戦前に首塚を撤去しようとしたところ、スタッフや作業員を含む14人か亡くなったそうだ。
また、戦後GHGにより首塚の撤去作業が行われたが、その最中にブルドーザーが横転し、運転手の方が亡くなるという悲惨な事故も起きてしまったのだとか。
その後、あのGHQでさえも首塚の撤去を断念したのといわれている。その他にも首塚の撤去は幾度となく提案されてきたが、その度に奇妙な事故が起きてきたそうだ。
最終的には「大蔵省再建事業」の際に崩されてしまったそうですが、1970年に現在の形へと整備されることとなった。
陰陽師も恐れる将門の怨念
何度も不可解な事故が起きてきた平将門の首塚こと「将門塚」ですが、その怨念は非常に強力なものだといわれている。
この理由としては、民衆のために動いた平将門が、朝廷の裏切り者・反逆者として晒し首にされたため、その強い怨念が今なお残っているとの見解があるのだ。
第28代陰陽師・阿倍成道氏も自身の著書の中で、下記のようなことを言及されている。
将門の怨念は単なる伝説ではなく事実なのです。そしてそれは今も続いています。
引用:日本の結界(2018)
このような背景もあってか、将門塚は高層ビルの並ぶ東京の大手町に今もひっそりと立っているのだ。
実際に将門塚を調査してきた

今回の本題だが、東京の大手町に今も存在している将門塚はを調査してきた。
この首塚自体は非常に小さいが、下記のような特徴が印象的だった。
- 東京都の指定文化財
- ガラスケースに入った石碑
- 豪華な装飾のお墓
- 結晶石やカエルの置物
ちなみに、日本の神社などでは縁起の良いカエルの置物がよく観られるが、この将門塚では無数のカエルのオブジェクトや小さな水晶が設置されている。

こちらは将門の首が故郷の関東へと飛んできた伝説から、「無事に帰る」という意味で出張や転勤前の参拝者が置かれていったそうだ。
また、お墓の裏にはガラスケースに入った石碑が設置されており、こちらもかなり独特な造りとなっていることが伺える。

このような要因もあり、都会の中心にあるのにも関わらず、その雰囲気はかなり厳格で異様なものとなっているのが見て取れる。
将門の霊は神田明神に祭られている
平将門の霊は、1309年に神田明神に祭られ、現在もそこの御祭神として崇められている。

神田明神は首塚から徒歩20〜30分ほどの距離にある神社だ。
かつて将門塚の東隣にビルが建てられた時、各フロアの従業員たちが病にかかるといった現象が起きたらしく、その際にこちらの神職が塚にてお祓いを行ったそうだ。
また、毎年9月には「将門塚例祭」が首塚周辺で行われているのだとか。
平将門の首塚・まとめ
日本には数々のいわくつきのスポットが点在しているが、平将門の首塚はそれらを遥かに凌駕する場所ともいえるだろう。
あの陰陽師でさえ、将門の怨念が今も存在していると言及するぐらいなので、その信憑性は否定できないだろう。
今回の記事は2021年に書かれたものだが、近年では改修工事が行われ、将門塚はより綺麗な外装へと生まれ変わっていたため、現代でも撤去することは難しいのだろう。
興味のある方は、一度参拝してみてはいかがだろうか。
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