もしも織田信長が本能寺で死なずに生き続けていたら?その後の戦国〜現代の歴史を考察する
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1582年6月2日、京都・本能寺。
信長を支える重臣・明智光秀が突如謀叛を起こし、天下統一まであと一歩に迫っていた織田信長は、その生涯を閉じた。
だが、もし信長が本能寺で死ななかったとしたら、その後の歴史はどうなっていただろうか?
この問いは、歴史好きなら誰もが一度は考えたことがあるはずだ。
信長は単なる戦国武将ではなく、宗教勢力の解体、楽市楽座による経済改革、鉄砲の集団戦術導入など、中世的な秩序そのものを壊し続けた「革命家」だった。
その信長が生き続けていたなら、戦国時代の終わり方、江戸時代の姿、そして現代日本はまったく異なるものになっていた可能性がある。
今回は信長が生きていた場合の壮大な歴史IFを、戦国時代・江戸時代・現代の三段階に分けて考察していく。
Table of Content
- 本能寺の変とは何だったのか?信長暗殺の背景を振り返る
- 【戦国時代IF】信長存命なら統一は秀吉・家康より早かったか
- 天下統一の完成は1580年代後半には実現していた可能性がある
- 豊臣秀吉・徳川家康の「出番」はどうなっていたか
- 【江戸時代IF】信長政権が続いていたら「鎖国」はなかったか
- 信長は鎖国と正反対の政策志向を持っていた
- 武士の支配体制はどうなっていたか
- 海外進出と朝鮮・明への遠征計画はどうなっていたか?
- 【現代日本IF】信長政権が続いていたら日本はどう変わっていたか
- 産業革命への対応が大きく変わっていた可能性
- 天皇制・政治体制はどうなっていたか
- 「江戸的文化」歌舞伎・浮世絵・俳句は生まれなかったか可能性がある?
- まとめ・信長が生き続けていたら、日本はどんな国になっていたか
本能寺の変とは何だったのか?信長暗殺の背景を振り返る

考察の前に、まず本能寺の変の歴史的文脈を整理しておきたい。
1582年当時、信長は実質的に日本の中央部を支配下に置き、天下統一の完成が視野に入りつつあった。
毛利氏との戦いで羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が苦戦しているとの報を受け、信長は自ら中国地方への出陣を決意し、本能寺に宿泊していたのだ。
その隙を突いたのが明智光秀だ。
光秀が謀叛を起こした動機については、下記のような説が存在する。
・怨恨説
・野望説
・黒幕説
などなど、現在も歴史研究者の間で議論が続いている。
いずれにせよ、この事件は「情報の空白」と「少数警護」という信長側の油断を突いた、好タイミングの産物でもあった。
逆に言えば、信長が「本能寺に泊まらなかった」「光秀の動向を事前に察知した」「護衛が多かった」など、いくつかの条件が重なれば生き延びた可能性は十分にあったともいえるだろう。
【戦国時代IF】信長存命なら統一は秀吉・家康より早かったか
まず、信長が本能寺を生き延びたとして、その後の戦国時代がどう変わったかを考えてみたい。
本能寺の変がなければ、当然ながら明智光秀はクーデターに失敗するか、そもそも起こさない。
秀吉による「中国大返し」も「山崎の戦い」も起こらないだろう。
歴史の流れは信長による天下統一という方向へと、より直線的に進んでいたと考えられる。
天下統一の完成は1580年代後半には実現していた可能性がある
1582年時点で信長が掌握していた勢力圏は、東海・近畿・北陸の大部分に及んでいた。
残る主要な抵抗勢力は下記だけだった。
・西国の毛利氏
・九州の島津氏
・関東の北条氏
信長は毛利氏との交渉窓口を秀吉に任せつつ、自身は東国・北国の制圧を進めていた。
本能寺がなければ、1580年代後半には毛利氏との和睦もしくは制圧が完了し、九州・関東への進出も現実味を帯びていたと推測される。
秀吉による統一が1590年(小田原攻め)に完成したことと比較すれば、信長存命なら数年早い1585〜1588年ごろには天下統一が成っていた可能性がある、という見方もできる。
豊臣秀吉・徳川家康の「出番」はどうなっていたか
信長が生き続けていれば、秀吉と家康の歴史的役割は大きく変わっていた可能性が高い。
秀吉は信長の死によって後継者争いを制し、天下人となった。

しかし信長が存命なら、秀吉はあくまで有能な家臣のひとりであり続けただろう。
農民出身という出自と信長への忠誠から見ても、秀吉が信長に反旗を翻す可能性は低い。
家康もまた同様だ。家康が天下を獲ったのは秀吉の死後という歴史的前提があってこそで、信長が統一を成し遂げた場合、家康は信長政権下の東国大名として生涯を終えた可能性が高い。
つまり、江戸時代そのものが生まれなかったシナリオが、最も自然な帰結のひとつだ。
【江戸時代IF】信長政権が続いていたら「鎖国」はなかったか
次に、信長が天下統一を果たした後の「信長政権」がどのような形をとっていたかを考えたい。
ここが最も想像力を刺激する部分となるだろう。
信長は鎖国と正反対の政策志向を持っていた
徳川幕府が1630年代に完成させた「鎖国」体制は、下記を柱とするものであった。
・キリスト教の禁止
・貿易の統制
・外国船の来航制限
これは幕府の政権安定と外来思想の排除を優先した政策だといえる。
一方、信長はキリスト教に対して非常に寛容だったことで知られている。
宣教師フロイスとの交流や、南蛮文化への関心から見ても、信長が貿易や異文化に対して閉鎖的な政策をとるとは考えにくい。
むしろ、信長政権下では南蛮貿易がさらに活発化し、火薬・鉄砲・造船技術の輸入が加速していた可能性がある。
「鎖国なき日本」が実現していたシナリオは、十分に現実味を帯びた仮定だ。
武士の支配体制はどうなっていたか
江戸幕府が確立した「武士による封建支配」が信長政権下でも継続されたかどうかは、興味深い問いの一つだ。
信長はすでに兵農分離を推進し、城下町への人口集積と商工業者の保護(楽市楽座)を進めていた。
これは江戸時代的な「士農工商」の身分秩序とはやや異なる、より流動的な社会構造を目指していたようにも見える。
また信長は仏教勢力(一向一揆・延暦寺)を武力で抑え込んだことでも知られる。
宗教的権威に依存しない政治体制を志向していたとすれば、徳川幕府のような「寺請制度による民衆管理」は生まれなかった可能性がある。
海外進出と朝鮮・明への遠征計画はどうなっていたか?
豊臣秀吉は天下統一後、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を断行した。
この出兵は秀吉の晩年の失策として評価されることが多いが、実は信長もアジアへの関心を持っていたとする見方もあるのだ。
信長が生き続けた場合、朝鮮・中国への進出計画を持ったかどうかについては確証がない。
ただ、貿易立国的な方向性が強まっていたとすれば、武力進出より通商関係の構築を優先した可能性もある。
秀吉型の「征服」ではなく、信長型の「市場開拓」という形で東アジアとの関係が形成されていたなら、近代日本の対外政策もまったく異なる姿をとっていたことが予想できる。
【現代日本IF】信長政権が続いていたら日本はどう変わっていたか
最も大胆な考察に踏み込んでみよう。
信長政権が江戸時代をすっ飛ばし、そのまま近代・現代へとつながっていたとしたら、現代日本はどんな姿をしていただろうか。
産業革命への対応が大きく変わっていた可能性
歴史の最大の皮肉のひとつは、「鎖国」で200年以上を過ごした日本が、幕末のペリー来航によって強制的に開国させられたことだ。
もし信長政権のもとで貿易・交流が続いていたなら、17〜18世紀にヨーロッパで進んだ産業革命の情報・技術が、より早い段階で日本に入っていた可能性がある。
18世紀後半には日本独自の産業革命的発展が起きていた、というシナリオも完全には否定できない。
その場合、明治維新のような「外圧による急速な近代化」ではなく、「内発的・段階的な近代化」が起きていた可能性がある。
その帰結として、日本が列強と戦争状態に入ることなく、平和的な形で近代国家へと移行していたというシナリオも想像できる。
天皇制・政治体制はどうなっていたか
信長は「天下布武」を掲げ、武力による天下統一を目指した。
朝廷や天皇との関係については、信長が「神」に近い存在として自己演出していたとする研究もある。
徳川幕府は天皇の権威を形式的に保ちつつ実権を握る体制を確立したが、信長がどのような政治体制を志向していたかは依然として議論が多い。
皇帝的な地位を目指していたとする説、征夷大将軍にはならないまま独自の権力形態を作ろうとしていたとする説など、評価が分かれるだろう。
いずれにせよ、信長政権下の「現代日本」が天皇を象徴とする立憲民主制をとっていたかどうかは、きわめて不確かだ。
もしかすると、日本は信長の血脈による皇帝制に近い体制、あるいは共和制的な形で変容していた可能性すらあるとも考えられる。
「江戸的文化」歌舞伎・浮世絵・俳句は生まれなかったか可能性がある?
見落とされがちだが、信長が生き続けていたとしたら、江戸時代に花開いた下記のような独自の文化も生まれなかった可能性がある。
・歌舞伎
・浮世絵
・俳句
・落語
・相撲
などなど、現代でも「日本文化の象徴」とされるものの多くは、徳川の太平の世が生んだ庶民文化だ。
鎖国体制のもとで外来刺激が限られていたからこそ、日本独自の美意識と感性が高度に発展したともいえるだろう。
貿易・開国路線の信長政権が続いていたなら、日本文化はより南蛮・西洋の影響を受けた「雑種文化」として発展していたかもしれない。
現代の「わびさび」「もののあわれ」といった日本的美意識が世界に発信されることもなかった、という皮肉な逆転が起きていた可能性も考えられる。
まとめ・信長が生き続けていたら、日本はどんな国になっていたか
織田信長が本能寺で死ななかったとしたら、その歴史的影響は戦国時代の統一シナリオにとどまらず、江戸時代の「鎖国・封建体制」そのものを生み出さなかったという大きな変化をもたらしていた可能性がある。
鎖国なき日本、産業革命への早期対応、そして江戸文化とは異なる「開かれた日本文化」の発展…
これらが実現していた場合、現代日本は今とはまったく異なる国の形をしていただろう。
ただし、こうした考察はあくまで「可能性」の話だ。
歴史は無数の偶然と必然が絡み合って形成される。信長が生き延びたとしても、新たな謀叛や病死、戦死など別の要因が生じた可能性もある。
それでも「もしも」を考えることは、歴史の必然性と偶然性を改めて問い直す、豊かな知的営みだ。
本能寺の変は、たった一夜の出来事が数百年の歴史を変えうることを、今も鮮烈に教えてくれているのかもしれない。
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